ラーメンを食べるという自傷行為


ラーメンを食べるということはわたしにとって一種の自傷行為だ。

別にアレルギーがあるわけでもないし、極端なダイエットをしているわけではない。わたしはBMI18〜22あたりの「普通体型」を常にウロウロして「痩せたい〜」と言ってる女子大生のひとりだが、少なくとも今は、本格的な食事制限を伴うダイエットはしていない。以前は毎日やってた嘔吐もそんなにやってない。でも、わたしの中でラーメンを食べるということは自傷行為なのだった。


今日は朝起きた時点で、というよりAM3時頃に寝付いた時点で、あまり調子がよくないな、と気づいていた。というより体調がよかったことなどここ5年の中で数えるほどもないのだけれど、この3週間はその中でも最低だった。そして、今日はその地続きの今日だった。

だめだと気づいた時点で、ダメなことに慣れきってるわたしは、今日やったことの実績としてゴミ出しはしておこう、とパジャマでメガネもかけずにゴミを出しに行った。おそらくAM10時前。親に言いつけられていた電話をする気になれなくてソファでダラダラ漫画を読んで、泣いて、水を飲んで、電話をした。それが終わったらくるはずのメールが来ていなくてまた何もかもうまくいかない心持ちになった。とりあえず化粧をしてメールがくるのを待ったけれど、結局メールは来なかった。やらなければならない作業をそれなりに積んでいるので、隣の駅まで出て作業してついでに病院で薬をもらってこようと決める。ここ数日咳が止まらなくて夜の寝つきがさらに悪くなっているからだ。

そろそろご飯を食べなきゃいけないな、と商店街をふらふらと歩いた。この駅には格安で居座れるお気に入りのカフェがあるので、その店に入ろうと、北口を出て右に進んだ。そこでふと気づく。ラーメンが食べたい。わたしはカフェを通り過ぎてラーメン屋に向かった。


ラーメンを食べることのどういうところが自傷行為なのか、よくわからない。強いて言うなら、特においしいと思わない食事に800円を払って、愛想の悪い店員に礼を言い、居辛さを感じながら店をあとにする、その全てが痛いのかもしれない。ラーメン屋は混雑していた。わたしはラーメン屋に行くのをやめてはなまるうどんに行った。少し安心していた。


ラーメンに関する記憶は、家族についての記憶ともほとんど重なる。わたしの父はラーメンが好きで、幼い頃外食といえばラーメンかサイゼリヤかで喧嘩をしたものだった。いくらか時が経って、わたしが父を「嫌い」になったあと、母はよくラーメンの悪口を言った。わたしもそれに同調した。

母は、わたしと妹を叱るとき、よく「そういうところ、父さんそっくり」と言った。わたしも妹もそれを言われると泣いて嫌がり、損なった母の機嫌を必死に取ろうとするのだった。


結局、はなまるうどんでぶっかけの中を食べて、もともと行くつもりだったカフェでこの文章を書いている。隣の年老いた男性は、産経新聞を読んでいる。やらなければならない作業は、この文章を書いても減るわけではない。


2019/9/25

新・タイタニック号の船員として

潰えるタイタニック号に乗っている気分だ。しかもわたしは船員。何かができるはずなのに何もできない。巨悪があるように思うのに発信源はどこにもない。

世界はくそだ。

沈みゆく船のうえで正義に震えたり美しいものを愛したりしても何にもならないのかもしれないと思う。わたしが怒っても喜んでも世界はくそであり続ける。なんなんだ。ほんとうに、どうしてくれよう。


病理的な通常。「ディアスポラ」のディアスポラコーホート効果。

学んで、重ねて、考えて、それで、もしもわたしが世界を少し理解できても、わたしはこの船の上、手をこまねいて見ていることしかできないんだろう。それだけはわかってる。もう何も考えなくていいですか。考えることをやめてもいいですか。喉の奥でつっかかった言葉が、音になるのはいつだろう。きっとそれに答えは返ってこない。考えることを止めるのは、わたしの勝手なのだから。


2019.8.26

あーあ

まあべつにそんなこと知ってたしさ、それがあなたであるって知らなかっただけなんだけどさ、今晩はそもそも気圧の感じがあんまりよろしくないし生理前だし気分がよくなかったからかもしれないけどわたしはそれなりに傷ついたよ。

この人のこと割と好きだなと思っていた人が、FBで個人的にはチョーアリエナイ政治記事を拡散していた。もうほんとチョースゴイやつ。わたしのいまやってる勉強はこういうのなんで起きちゃうんだろうねって話なわけだけど、身の回りにいるんだそういえばって目眩がした。たしかにこういう人が多数派なんだよねいま割とって思うと目眩どころじゃなくて吐き気までしてきそう。生きんのつらいわーーー。どうしたらいいんだろうねこういう夜。ひとりになりたくて自分の部屋に飛びこんだけど、お風呂も入ってないし歯も磨いてないしコンタクトも外してないしで寝れやしない。この世の中に救いなんてないんだろうなってずっとわかっててそれなのになんで生きてんだろって苦しくて、でも死にやしないのわたし。あーーつらい。しんどい。くるしい。あたたかいなにかに包まれたい。

あーあ。

解なし

最終日、**に向かう車中、高速道路で周りの車のナンバープレートを眺めていた。「23-72」「81-31」。四則演算で10をつくる遊びは、おそらく多くの人に経験があると思う。あるトラックのナンバープレートが「・・75」だった。解なし。そういえば、この遊びでわたしは解のない問題の見分け方を知ったな、と思い出した。


スーパーに並んでる魚や肉を見るだけで気持ち悪いな、と思っていたわたしが、**を三枚おろし(先生いわく60点。友だちは90点だった)できるようになっただとか、真っ白だった肌がすこし日に焼けて化粧をするとポロポロ皮膚がはげることだとか、そういう学びや変化はもちろんあって、でもそれよりもわたしがそこで得たのはたぶん、解のない問いだったと思う。

漁村でたくさんの人にあった。当たり前に初めて会う人ばかりで、当たり前にもう二度と会わないかもしれない人たちだった。わたしは絶対とは言わないがおそらく**に引っ越してくることはないだろうし、彼らが東京に引っ越してくることもまたないだろう。ここを紹介してくれた先輩にはまた会うだろうけれど、ここで連絡先も交換しなかったけれど確かにいた人、がこれから先もここに存在して、自分とは異なる人生を送っているということ、生活しているということ、それ自体がわたしにとって、わたしの人生にとっての救済だと思った。わたしが生きている世界で息ができなくなる瞬間はたしかにあって、でもその瞬間もこの人たちがここで息をしているということ、自分と異なる人間がいるということ、をすとんと理解できた。

でも、と思った。それは、彼らにとっても救いになりうるだろうか。たとえば、それは中心-周縁のメカニズムの中での中心の傲慢ではないだろうか。そもそも首都圏に住むということ、ホワイトカラーとして働くということを、中心とすること、それ自体が傲慢なのではないか——。

あるいは、別のことも考えた。友人は町を出るとき、「また来ます!」と屈託無く笑った。実際友人はまた来るかもしれないと思った。でも、わたしは「また来ます!」と同じように叫ぶことはできなかった。わたしは、「また来ます!」と言うこと、そして相手の記憶に反復可能性のある人間として存在することへの責任が、負えないと思った。それは決して友人が浅慮でわたしが深慮であるだとか、そんな次元の話ではなく、ただ友人はその言葉の重みを背負って生きていくことができる人で、わたしはあまりに弱く、その言葉の僅かな重さに崩れ落ちてしまうような人間であるというだけだ。そのどちらがより望ましい人間なのかは、わたしにはわかりかねる。


そんないくつかの問いを肚の中に蓄えながら、わたしは帰りの新幹線に乗り込んだ。最寄り駅に着いたとき、ふと感慨がよぎった。あるべき場所に収まったという安堵、ずいぶんと遠い場所にいたなという実感。それら全てが問いの種で、そしてそれを受け止めるには、まだ時間がかかる。答えは出ずとも、問いをかたちづくるための努力は惜しんではならないと思った。たぶん、そういう旅だった。


2019.8.18

読書感想文

おそらく、だけれど、わたしの文章についての原体験は、小学三年生のときの読書感想文だと思う。夏休みの宿題で必須だったそれのために、わたしはある本を読んだ。

そしてその感想は、「主人公が可哀想だった」「武器なんてなくなればいいと思った」の二文。貧しいものだった。小学一年生のときに書いた読書感想文は、学校代表で市の賞をもらった。なのに、小学三年生のわたしはほんとうにそれ以上の文章を書けなかった。母は、そんなわたしを見兼ねてその二文を多大に膨らませた感想文を、四百字詰原稿用紙三枚分作ってみせた。わたしはエクセルに入力されたそれを原稿用紙に写した。次の年も似たようなものだった。わたしは、文章が書けなかった。それでも、その当時はなんとも思わなかった。

やがてわたしは受験戦争の渦中に巻き込まれて、負けたり勝ったりしたのち、中学生になった。

中学生になってから、わたしは初めて文章を書いた。確か、小説。その習慣はずっと続き、高校一年生くらいまでオリジナルの小説を書いていたと思う。大学に入ってからは、ブログや日記を書いた。ちょっとした論文やESでも、文章が書ければよかった。就職活動中、友人のものも含めて、おそらく五十本くらいはESを書いたと思う。

なんやかんやで、たぶん、一万字くらいは何かしらの文章を毎月書いていると思う。人にみせるものも、そうではないものも。

わたしは、おそらく、あのとき口を噤んだ、言葉を編み出せなかった分だけ文章を書いているのだと思う。わたしは小説にしろ日記にしろいかなる文章も、作品と呼べない。わたしが書いてるのはただの文章だ。あの日書けなかった文章であって、それはひとさまに評価されるべきものなんかじゃなくて——と屈折した思いが、わたしに文章をそう呼ばせている。おそらく、文章を書くのが好きなわけでも得意なわけでもないんだと思う。でも、わたしは文章を書くことを辞められない。いま口を噤んだら、もう二度と言葉を発せなくなる気がしている。ずっと。


2019.8.8

腰が痛いのでやめさせてください

雨が降ったので今日は休みます、喉元まで出かかったその言葉が空気を震わせたことはない。あとわたしはもうここ数ヶ月バイトを原因とする腰痛に悩まされてるわけだが、腰が痛いのでやめさせてください、もまだ言えてない。

昔っから三半規管が弱くて、小学校の遠足では吐いたし、もっとちっちゃな頃はおばあちゃんちに行くたびに車をゲロまみれにしていた。大学に入ってから、友だちがいない大学に行くストレスで泣いたことがあったけど、思えば10分から1.5時間にのびた電車通学がそれに影響を与えていなかったとは思えない。

大学2年の頃くらいからしばらくめちゃくちゃしんどかった。調子がいい日はふつうに過ごせるんだけど、悪い日はどうにもならなかった。でもわたしはちゃんとした人間であることをやめられなくて、ほとんど授業もサボらなかったしバイトやサークルを飛んだこともない。だから大学でまで死ぬほどパンを口に詰め込んで、吐いて、思い返すとまた吐きそう。とにかくしんどかった。

最近ようやっとその複雑に絡み合った要因のひとつとして天気があることがわかってきて、どうも気圧が低い日?もしくは雨の日?そのあたりの日に体調を崩しやすいことがわかった。死にてえ、と口から言葉がついて出たときは気圧を確認する。低気圧ってわかったからって死にたくなくなるわけじゃないけど思考を止めることはできる。


今日のTo Doリストには

・ゴミを出す

・洗濯する

・正義論読む

と書いてあった。朝ごみ収集車が去っていく音で起きて、しばらくして降り出した雨で洗濯を諦めた。

正義論は読まなきゃ、と思っているうちに昼寝してしまって、家を出る時間となった。

帰宅して書きかけの日記に気づいていまこれを書いている。正義論は読めそうにない。

バイトにきっちりかっちり参加して帰りの電車で吐きそうになった。もう辛い。しんどい。やめたい。なにって、ぜんぶ。


わたしは何のために生きてるんだろう、ずっとそんなことを考えてる。中学生のころから何も変われていない。わたしは誰ともうまく関係を築けない。わたしはわたしがなんでうまく関係を築けないのかわかっているけれど、直すことができない。たぶんこれから一生、ずっとずっと。


腰が痛い。しんどい。雨は止んだけど気持ち悪さはおさまらない。

どこか遠くに行きたい。



2019.5.28